曇天焉んぞ 第二章 晴れのち曇り
「ソラ、第4大隊が戻ってくるってよ?」
デイヴが将来の上官への顔面パイをしでかしてから一週間後、ソラは自室で論文を読みながら、ホログラムの新聞を読むデイヴの声を聴いていた。第四大隊といえば、ザルツバーグ守備の応援に赴いていた陸軍の大隊だ。ソラはそこの隊長である大佐に喧嘩を売ったわけなのだが。
「へえ、それで?」
声の調子を聞く限り、ソラがそのことを気にしている様子はなかった。そんなソラの様子をちらっと見ながら、デイヴは相変わらずのソラにため息をついた。昔いた場所では、こんなやつではなかったんだがな…と内心こぼした。でも、仕方がない。あの時と今ではソラの心境もだいぶ違うだろう。
「いや、何もないよ?」
のんきにその様に告げるデイヴに、ソラは腹立たし気に目をやった。
「デイヴ、お前さっきから何がしたいんだ?俺の部屋に菓子と一緒にタブレット持って来たり、どうでもいい報告したり。何がしたいのか全く分からん」
苛立たし気に論文のデータを閉じるソラの気持ちも、生まれた時から一緒にいるデイヴにはある程度理解ができる。昔からそうだ。彼は無駄とかそういったものが極端に嫌いだった。
「いや、何も考えてないよ?」
だからこそか。デイヴは無駄にソラに絡むようになっていた。それだけは今も昔も変わらないデイヴの癖だった。
「あのな、デイヴ…」
「だって、考えたって何も始まらないじゃないか。ソラが心配するようなことはまだ何も起きてない。…だからこの平安を満喫したいのさ」
どこまでも呑気な様子を見せるデイヴに、ソラはどうしても苛立たしさを隠せなかった。あんまりにも暢気すぎる彼を、どうしてくれようか。もはやため息しか出てこない。
「今のところ、10年と4か月と24日間”それ”が起きてないわけだが、それが明日おきるとは気がらないぞ」
ため息とともに言われたその小言をデイヴは天性の明るさで吹き飛ばした。
「ソラは心配性なんだよ!起きたら、その時に考えればいいんじゃないの?」
デイヴの底なしの明るさに、辟易しながら、ソラは曇り空を見上げた。
「…お前は甘い、甘すぎるんだ…」
「ソラと足して二で割って、丁度いいんじゃないの?」
もはや明るすぎるデイヴに対し、ソラは何も言う気にはなれなかった。
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「どーも、大佐」
「ソラ少佐か」
ソラは夕方、参謀本部の廊下で件の大佐を待ち伏せしていた。気に食わない上司だが、どうも気になるところがある。その疑心がソラに無駄足を運ばせていた。この一抹の不安さえなければ、第4大隊帰還など、ソラにとってはどうでもいい案件だった。
「何か用事でもあるのかね?」
わずかに顔をしかめたこの大佐、名をオイゲンという。元々帝国の貴族の息子だったが、共和国樹立の直前に本家から離反し己の地位と命を守ろうとした男である。元々共和国の理想『自由・平等・共存』とはほど遠い男らしく、アドルファスは何度となくソラに彼を警戒するよう伝えていた。
「いや、何も?」
飄々としたソラの服装はいつものように軍服のジャケットのボタンを締めない、だらしないものだ。今来ているのが戦闘用の軍服だから、という訳ではなく、典礼用の軍服でも彼はいつもこのような服装だ。明らかに態度が悪い子の青年を、なぜ元帥は徴用なさるのか、という声は軍部で多く聞かれる言葉だ。
「何もないのなら、なぜ来たのかね?君は本部付きではないはずだが」
「なぜ、か。そうだな。臭いにおいがするからそれを追いかけて来たらあんたにたどり着いた。だからだな」
勝手な真似はさせない。そう、ソラの目が語っていた。ソラについての評判は、基本的に外見と功労について以外は最悪だ。いかし、誰もが口をそろえて渋々ながらこう言う。『あの男は共和国に忠誠を誓っている。誰よりも。だから、共和国のためならなんだってするだろうさ。それは間違いない』
「…。匂いは君自身のものではないか?ソラ少佐」
機嫌を損ねた様子のオイゲンはそう返してきた。彼は10年前からソラのことを不信の目で見ている。なぜ、13歳より前の記録がないのか。元帥に引き取られる前は何をしていたのか。なぜ、誰もが彼を共和国への忠誠の塊と評すのか。彼は未だに分からずにいた。最も、これは彼だけの話ではないが。
一方、匂うと言われたソラはこれ見よがしに腕を鼻の前に掲げ、匂いを嗅ぐ仕草をしてみせた。
「やっぱり無臭だけど?」
デイヴかケマルがいようものなら、それはない、と言いそうなことをソラは真顔で言い切った。しかし、残念ながらこの場に彼らはいない。所謂、ツッコミ不在の状況である。
「…真実そうだと良いな、少佐」
「あんたもね」
殺伐とした会話の後、しばらく二人は剣呑に視線を交わしていた。が、それは一人の士官によって阻まれた。
「失礼、少佐。参謀総長殿が大佐をお待ちです」
「では失礼する」
一瞥してオイゲンは身をひるがえした。そんな姿を、ソラは不愛想に見送った。
「どーぞ」
彼が廊下を曲がるのを確認してから、ソラは帰宅しようと駐車場へ向かった。時計を見れば5時30分。今日もアドルファスの帰りは遅いが、ソラまで遅くなると空腹を抱えたデイヴが怒るだろう。なにせ、男三人の家庭で、唯一料理ができるのがソラだけなのだから。あの食欲の塊に何を作ってやろうかと考えながら駐車場を歩くソラの背中に声が飛んできた。
「あの、ソラ少佐。少し、よろしいでしょうか?」
「どうした?」
この声は先ほどの士官のものだ。振り返って軍服を見るに、少尉といったところか。
ソラの明らかに苛ついたような対応にも拘らず、彼は笑顔で近づいてきた。
「自分は第4大隊所属のセオドア少尉と申します。実はソラ少佐に憧れていまして、良ければお話を伺いたいなと…」
「俺が受けてやると思うか?」
ソラは眉間にしわを寄せてセオドアの話を聞いているが、セオドアは気にした風を見せていない。むしろずっと笑顔を保ち続けている。ソラが己の要求を呑む、それを確信しているようだった。
「ええ。その気が全くないのなら、あなたのことだ、自分のことを無視してるでしょう?」
妙に確信に満ちた様子の少尉の顔をじっ、と見つめていたソラは一瞬考え込むような様子を見せたが、一秒後に心を決めた。あの大佐が本部に連れてくるような士官だ。なにかリークできるかもしれない。
「いいぜ。受けてやるよ」
長くても一時間程度だけどな、そう告げる黒い瞳はどこか楽し気に輝いていた。
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本部からは少し離れた場所にある摩天楼の中層部にあるコーヒーショップ、そこにソラとセオドアの姿があった。すでにデイヴには外食をするようにメールで告げてあるためソラの気は楽だ。最も、先ほどから通信機が何度も着信音をならせているが、それは見事に無視されている。
「で、何聞きたいんだ?」
華麗に着信音の無視を決め込むソラに対し、少々気まずい顔をしていたセオドアは急に我に返ったように笑顔に戻って姿勢を正した。本人曰く憧れている上官の私生活でもいい加減な態度を見て、少し気が引けていたのだろうか。
「あ、はい。まず、どうして士官学校も入らずに、入隊を決められたのですか?」
そう。ソラは士官学校を出ていない。さらに言えば、大学以外の学歴はない。入隊には満16歳以上である必要があるが、それを満たした瞬間、彼はさっさと軍に入ってしまったのだ。そして19、20歳の軍役を終えると同時に推薦入試で大学へ入学。一年飛び級・主席卒業で今に至る。なぜ、これほどの男が、幼年学校はともかく、士官学校へ通わなかったのか。それは誰もが思う疑問だろう。
「特に…理由はねえな。自分をいかにして共和国のために使うか、それだけを考えた結果だ」
ソラはコーヒーを片手に記憶を手繰り寄せながら答えた。引き取られてから3年間の記憶は少々曖昧だが、アドルファスに多大な迷惑をかけたことだけははっきりと覚えている。よくもまあ、彼は自分をここまで育て上げたものだと、ソラは感嘆している。彼には恩を返しても返しきれないだろう。
そのようにつらつらと質疑応答が繰り返されていく。セオドアはこの上官が真実をすべて語ってはいないことを感じ取っていた。しかし、それを追求することはけしてなかった。
ソラとて、全てを言わないのは、決して彼が不誠実だからではない。共和国に来て早十年が経つが、彼の中でも未だに思うところはある。あの時の選択は正しかったのか。もう少し、本当にもう少し、どうにもならなかったのか。未だに胸中にそういった思いは燻っているからだ。
「…なるほど。最後に一つ。本当のご家族はいらっしゃらないのですか?」
相も変わらない笑顔でセオドアは、誰もが敢えて聞いてこなかった質問を彼に投げかけた。その質問に、ソラは久しぶりに余裕の表情を崩した。大きく開かれた目が細まり、いつも以上に目線が鋭くなった。落ち着け、決して己について知られているはずがないのだから。だから、落ち着け。そう言い聞かせるが、声がわずかに震えるのは抑えられなかった。
「あんたは何を知ってるの?」
いつもの態度が揺らぐソラとは対照的に、セオドアは笑顔を保っている。そんな同年代の少尉に、ソラはうすら寒さを憶えた。こいつとはできるだけ関わりたくはない。そう思う反面、このどこか不気味さに懐かしさを感じ、できれば親しくなりたい、そう思うソラもまた同時に存在するのも事実だった。
「いえ、何も?少佐。お答えいただけますでしょうか?」
問いを撤回する気のないセオドアに、気づけばソラは正直に答えてしまった。生まれた時から一緒にいるデイヴと保護者であるアドルファス以外、誰も知らないことを。
「…兄がいた。唯一の肉親の。喧嘩別れしてしまったけどな」
そう。未だにソラを苛む後悔の一つ。どうしてあの時、ああするしかなかったのだろう、という後悔。でも、もう、元には戻れない。
珍しく弱気な表情を見せるソラを、セオドアは優しく見つめて沈黙を貫いていた。しかし、暫くして躊躇しながら口を開いた。
「私は一人っ子なので、少佐や少佐のお兄様の気持ちを完全に汲むことは出来ません。…しかし、もし、私に少佐のような弟がいたのなら、そして帰ってくるのなら…」
セオドアはそこで一度口を閉じ、柔和に微笑んで見せた。ソラにはそれが自身の敬愛する兄のそれに見えた、とのちに言っていた笑顔を。
「無条件に『お帰り』と言うでしょう」
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「あれ、デイヴ?」
ソラに電話をかけても、出る気配がみじんもしないので、とうとう諦めて外食をしようと外に出たデイヴは友人のアグネスが外にいるのを見かけた。
「アグネス、どうしたの?」
時計の針は午後6時20分を指している。こんな時間帯に女子が出かけて良いものか、とデイヴの頭の中でソラの声が聞こえてきそうである。
「私?私は夕食の材料で足りなかったものを買いに来たの」
御遣いよ、というアグネスにデイヴはそうか、と適当に相槌を打って別れようとした。もう、日が沈んでいるから、無駄に彼女を引き留めるは悪いだろう。一人娘の帰りが遅いと、彼女の両親が心配しかねない。例えここが都市の上層部だとしても、どんなに明るかったとしても、今が戦時中であることには間違いない。何があってもおかしくはない。ソラではないが、デイヴにもその程度の緊張感はあるのだ。
しかし、そんなデイヴをアグネスが呼び止めた。何かと思えば、彼女は晴れていても大して”星”とかいう光る天体が見えない夜空を見上げていた。
「ねえ、デイヴ。この間、リンと話してたんだけど」
ここ数日、曇りの日がやけに多くないかしら?